東九条!
「時の人」
京都で南区東九条と云えば在日の方が多く、少し前までは、河ぞえに家が立ち並んでおり、番地が無く、
0番地と呼ばれていた、現在は綺麗な遊歩道になっており、そこで暮らして居た、在日の方達は新しく
建った市営住宅に、入居されてから、もう何年経っただろうか
「時の人」吉田潤喜さんは海外で{ヨシダソース}で成功を成し遂げた人であるが、
南区東九条生まれとまで、云うなら、何故「堂々と在日韓国人」と云わないんだろうとオカンは思った。
オカンは直接の知り合いでは無いが、同い年の方に聞いていたので、新聞を見ただけで判った。
ただ、新聞で書かれている言葉が印象に残った。
不幸起きれば別の扉が開く
見えは一番の敵
オカンは幸せな時が一番怖い
1度、その経験をしたからであり、絶頂感で喜び溢れていた時だったなぁ。
幸せ感から一気にどん底に振り落とされた
何で自分の力でやり遂げたのにと、神も仏もない酷さを味わったが、オカンよりも本人が一番辛い
のは、判っているが立ち直るまでに時間は掛かったが、その辛い路に何時までもしがみ付いても、何も解決は
無いと悟り、反対の路を選んで、今の幸せだが浮かれていると、又、どん底が待っている。
「人生は 浮き沈みなり 乗り越えて 人の為にて 真の幸あり」
「浮かれしの 経験せずと 被災地に 尽くす奉仕に 意味が有りるる」
オカンは息子から、色んなことを教えて貰っている事を、今頃に気づく鈍くさいオカンやなぁ。
この子らが世の光を の意味が今頃判る。
オカンは頑張るぞ耕祐もガンバだよ
(介護日誌)
10時過ぎにディのお迎えである。又しても忘れ物で、「シサムの○○」からの電話で判るが今日は忘れ物無しと送りだしたのに、やちゃた。耕祐、帰えってきたら「オカン、いい加減にしろよ」と不機嫌だろうなぁ。
京都で南区東九条と云えば在日の方が多く、少し前までは、河ぞえに家が立ち並んでおり、番地が無く、
0番地と呼ばれていた、現在は綺麗な遊歩道になっており、そこで暮らして居た、在日の方達は新しく
建った市営住宅に、入居されてから、もう何年経っただろうか
「時の人」吉田潤喜さんは海外で{ヨシダソース}で成功を成し遂げた人であるが、
南区東九条生まれとまで、云うなら、何故「堂々と在日韓国人」と云わないんだろうとオカンは思った。
オカンは直接の知り合いでは無いが、同い年の方に聞いていたので、新聞を見ただけで判った。
ただ、新聞で書かれている言葉が印象に残った。
不幸起きれば別の扉が開く
見えは一番の敵
オカンは幸せな時が一番怖い
1度、その経験をしたからであり、絶頂感で喜び溢れていた時だったなぁ。
幸せ感から一気にどん底に振り落とされた
何で自分の力でやり遂げたのにと、神も仏もない酷さを味わったが、オカンよりも本人が一番辛い
のは、判っているが立ち直るまでに時間は掛かったが、その辛い路に何時までもしがみ付いても、何も解決は
無いと悟り、反対の路を選んで、今の幸せだが浮かれていると、又、どん底が待っている。
「人生は 浮き沈みなり 乗り越えて 人の為にて 真の幸あり」
「浮かれしの 経験せずと 被災地に 尽くす奉仕に 意味が有りるる」
オカンは息子から、色んなことを教えて貰っている事を、今頃に気づく鈍くさいオカンやなぁ。
この子らが世の光を の意味が今頃判る。
オカンは頑張るぞ耕祐もガンバだよ
(介護日誌)
10時過ぎにディのお迎えである。又しても忘れ物で、「シサムの○○」からの電話で判るが今日は忘れ物無しと送りだしたのに、やちゃた。耕祐、帰えってきたら「オカン、いい加減にしろよ」と不機嫌だろうなぁ。
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